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作品と批評
本展では武蔵野美術大学大学院 彫刻コース所属の作家7名による新作が出品され、芸術文化政策コース所属の学生によって批評が執筆されました。本ページは、その出展作品の写真と批評文のアーカイブです。
齋藤 絵利花 Saito Erika
《一定と揺らぎ》 インスタレーション
300×140×150(cm) ミクストメディア、サーキュレーター
批評:津田 愛子 Tsuda Aiko
一日毎に、時間は終わっていく。齋藤にとって時間は「経つ」のではない、「終わる」ものであるのだ。その観点には、ある種の不安と負の要因が混在している。時間は強制的である。時間を止めることは不可能であり、時間枠の中でモノはただ存在することしかできない。
美術作品における「動き」の観念、動く彫刻が涌現するものとして、自然の風力を応用したアレクサンダー・カルダー(Alexander Calder,1898~1976)のモビール作品に顕著なように、キネティック・アートと総称されるものは、計算不能で偶発的な動きを採りこんだものもある。本作品において、流れる風は、機械による一定の制御を受けているように思えるが、電力が風力へと変換され、不規則なポリエチレン製テープの動きにより、制御できない風が可視化される。齋藤はこの風に、時間のもつ強制力を重ね合わせた。
一見無機質な力は間接的に細いモビール全体を動かす有機性を孕んでおり、テープ上に用意された装置=モノが有機的な力によって、ぎこちなく動かされる。そのモノは自分が時間の枠の中で動かされざるをえないことをどこかで知っている。そして諦めてもいる。細やかにみえる全体は、暴力的な気配をひっそりと感じさせるのだ。
例えば、大巻伸嗣(1971~)は作品《Liminal Air Space-Time》(2012)によって、時間と空間の領分を認識することを、一枚の布を使って試みた。一方、齋藤は一枚のテープを軸に「美しさ」や「分断」とは異なる「継続する強制力」や「時間」を我々に認識させる。フレームの立てられた空間は、視点の枠組みを私たちに与えると同時に、その場で起こらざるをえないことを無機性のなかの有機性、意図された強制力によって我々が時間に抗えないことをひっそりと提示するのである。
Photo by Ken Kato
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