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作品と批評

本展では武蔵野美術大学大学院 彫刻コース所属の作家7名による新作が出品され、芸術文化政策コース所属の学生によって批評が執筆されました。本ページは、その出展作品の写真と批評文のアーカイブです。

前田 春日美 Maeda Kasumi

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《Waving》/《Grasp》
 120×165×165(cm)/サイズ可変 紙粘土、針金、FRP、木材/インクジェットプリント

 

 批評:上久保 直紀 Kamikubo Naoki

 本作は、風景から抽出した輪郭線の塑像である《Waving》と、それを撮影し、元の風景写真と重ね合わせて出力した《Grasp》の二対で構成されている。

 ここでいう輪郭線とは、風景を360°見回して撮影し、山の稜線と空との境界線などの遠景から抽出した線を指す。前田はそれを手の届く半径に縮小し、針金を成形し粘土を乗せて《Waving》を塑造した。円の内側と外側を見比べると、外側には心棒が露出している部分が残っており、内側からのみ造形されていることに気づく。おそらくそれは、前田がこの造形行為を視覚の触覚的な「解釈」行為として行ったからだろう。

 たとえば山の稜線は、視点から最も遠い部分の連なりであるため、山を量塊として認識しているときには意識されず、遠景として均質的な視線を向けたときに浮かび上がる。視線を対象に集中させる近視法が量を知覚させるのに対し、視程を延ばした遠視法が輪郭線を知覚させるのである。つまり、輪郭線を抽出する遠視法的な視線は量を知覚しない。

 前田が風景に送る視線が量を視ていないとすれば、本作で塑造されているのは、現実の量ではなく観念的な量ということになる。観念的な量とは、主体に内在的であり、彫刻家が身体的に持つ触覚的な感覚だ。前田は輪郭線を身体スケールに合わせて縮小しているが、それも、対象を触覚的な圏域に引き寄せることさえできれば造形できてしまうという彫刻家的な身体感覚があってこそのものだろうし、そういった意味で前田は彫刻家的なのだ。

 かつて哲学者であるオルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset, 1883-1955)は、セザンヌの描画を分析し、主観内の視覚的な量の感覚による風景の解釈だと論じている[1]。それを敷衍すれば、彫刻家が主観内の触覚的な量の感覚を投影して塑造していく行為も「解釈」行為の一形態と言えるだろう。視覚の解釈である以上、それが外側から塑造されることはなく、観念的な量が肉づくことになる。

 ところで、前田の作品に《見たいものだけ見てそれ以外は無視すること》(2017)というものがある。自身に向けて映像や写真をプロジェクションし、対面に用意した鏡でその投影された像を見ながら粘土を造形していく行為の記録だ。その作品の着想の原点は、電車の車窓から見えた遠景の山並みだという。

 前田は遠い山並みを見た経験をこう綴っている。「電車に乗っていて流れる景色の中で遠くの山を見たとき。自分は列車のスピードと同じように動いているはずなのに遠くの山は静止しているように見えることがあります。絶えず流れていく手前の景色と自身の身体、しかし静止したように見える遠くの山、その時に目と身体は繋がっているのに連動しないような身体的感覚のズレを感じました」[2]。視角的に遠景が視野に留まりやすいことは自明ではあるが、前田が持つ違和感は視覚と身体的感覚の間にあり、単なる視覚的な話ではない。この身体的感覚とはつまり触覚であり、対象を見ることと対象に触れて塑造することが感覚的に接続されているがゆえに違和を感じるのだろう。

 遠景に見える山に言及した彫刻家に若林奮(1936-2003)がいる。「遠方の山が見えるようになってきた。それを見る時はほとんどが自動車か鉄道に乗り、移動しながらのことである。自分が移動しているときは、空間の中にある樹や家も動いて見えるからかもしれない」[3]。若林は自身と対象との間の空間を測るための作品群《振動尺》を制作しているが、ここではその役割を動いて見える樹や家が担っている。続けて若林の文章を参照しよう。これは、若林が大雨のなかでバスの後ろを運転した際の経験を自身で分析したものだ。「自分とバスの間の無数の雨は眺める対象を更に不明瞭にしながら、自分とのつながりを持たせるものとしてそこにあった。中間的な空間を充たす自然現象である雨が、自分が見るものを人間でもバスでもない量、領域に変えたが、それによって空間をうめつくし触覚的にする。豪雨がもたらした見る事への制約は、強い印象を残したし、それ迄、視覚と触覚のずれを、物を見る時に、物のもつ表面の事とか、物と自分の関係とかいった実感をある程度は解決するものだろうと思われた」[4]。ここで自身と対象の間にあるのは雨であり、それによって空間が触覚的になったと述べられている。市川政憲はこの文章における「視覚と触覚のずれ」を「自然に直接触れることなく全体の関係性にむかう視覚と、自然との直接性にむかう触覚とのずれ」とかみ砕き、そのずれをあきらかにする作品が《振動尺》であったと指摘している[5]。このずれは前田が電車から見た遠景の山並みに感じたズレに近い。遠景の山並みが止まって見えるのは全体の関係性にむかう視覚において当然の現象であるのに対して、対象との関係を直接性に基づいて構築しようとする触覚はずれるのだ。

 

 さて、この近しい問題意識のもと、若林が制作したものは「尺」であり、前田が制作したものは「尺」ではない。先述したように《Waving》は「解釈」の過程で生まれでたものであり、厳密な客観性を要求する尺とは相容れない身体性が肉づいている。では、《Grasp》はどうか。

 《Grasp》は《Waving》を(風景から輪郭線を抽出したときと同様に)撮影し、元になった風景の輪郭線と重ね合わせて出力したものだ。塑造したものと実際の風景との対応関係が示され、観念的な量と現実の量の差異を気づかせるが、それらはあくまで裏表に重ね合わされてひとつの円を形作っている。つまり、前田が言う「身体的感覚のズレ」(≒若林が言う「視覚と触覚のずれ」)が半ば強引に重ね合わされてひとつの形体に統合されている。触覚的に捉え切れない視覚的な対象に対して、若林が《振動尺》で自身とその対象の間を触覚的に埋めることで測量したとするならば、前田は対象を撮影/出力することで触覚的な圏域に引き寄せ、《Waving》で解釈し、《Grasp》でそれが生んだずれの統合を図ったのである。もちろんこの統合も写真の撮影/出力によって象徴的に行われたものであり、観念的な操作をプレゼンテーションしたものだ。しかし、若林がナイーヴな慎重さをもって距離を測るのに対して、前田は介入し、操作・統合せんとしている。

 本作は静かで華奢なインテリジェンスを感じさせるが、その実、行われていることはアグレッシヴな力技なのかもしれない。一見静的な外見が、動的な内実を秘匿している。

ーーー

[1] オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳「美術における視点について」『オルテガ著作集3』白水社、1970、pp.29-30。

[2] 前田春日美 ポートフォリオより。

[3] 若林奮「森のはずれで 所有・雰囲気・振動」『へるめす』第7号、1986.6、p.65。

[4] 若林奮「境川の氾濫」雅陶堂ギャラリー、1982、p.21。

[5] 市川政憲「ひとつのはじまりを知ること」『今日の作家 若林奮展』、東京国立近代美術館、1987、pp.7-8。

​Photo by Ken Kato

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