作品と批評
本展では武蔵野美術大学大学院 彫刻コース所属の作家7名による新作が出品され、芸術文化政策コース所属の学生によって批評が執筆されました。本ページは、その出展作品の写真と批評文のアーカイブです。
中村 悠一郎 Nakamura Yuichiro
Photo by Ken Kato
《ガチャむらや》 サイズ可変 ガチャガチャ、中村悠一郎、机、イス、ミクストメディア
批評:石岡 叶 Ishioka Kanae
作家中村悠一郎はこれまでインチキガチャガチャメーカー『コスモス』の商品や、シュルレアリストたちが多用した自動筆記からヒントを得つつ「意味性からの逸脱」という主題を、ガチャガチャという媒体を用いて追及してきた。
過去の作品である《しょうもないガチャ》ではカプセルに封入される小物も、爪楊枝に輪ゴムを巻き付けた〈ケバブ〉、ホログラムシールが貼られた木材を組み合わせた〈ディスコルーム〉など、有意味―無意味間を浮遊する捉えどころのないものばかりがカプセルに封入されている。また《アンノウンネーム トゥー アンノウンフォーム》では、カプセルごとに作品の題のみ先に設定しておき、その題に合うよう小物を制作していくことで構想/設計/着手/完成という通常のプロセスから逸脱した、非意味的な創作行為を実践した。いずれもナンセンスの塊であり、“しょうもない”の語源「仕様の無さ」を体現している。そんな小物を有意味化させる要因の一つとなっていたのが“1回100円”という価格の設定であった。通貨への信用を下敷きにすることで制作者・購入者双方にとって、“少なくとも100円分の価値”という意味が共有されたのである。
だが今回の展示会場は、作品の売買を行わない公共空間である。そのため通貨という共通の信用媒体に頼らない、作品をめぐるやりとりが必要となった。本作の鑑賞者(参加者)は作家との協議の上で会話、踊り、歌、その他対価になりえそうな何らかのモノを提供する。中村がそれに応じれば、ガチャガチャのハンドルを回すことが可能となるのだ。
手探りで即興的な対価を用意しなければならない鑑賞者と、実際にそれがカプセルの中身と釣り合う価値になり得るか、明瞭な尺度をもちえない作家。両者の協議は「仕様のない」極めて曖昧な交換形式となる。「賢者かもしれない石」を複数持ち込む少女、「世の中で最もかっこわるい時間の過ごし方」について小一時間話し込む青年、展示会場に響きわたる「世界で一番ふつうの曲」。ガチャガチャマシンを挟み鑑賞者と中村の真剣なやり取りが、会期中幾度となく繰り返された。
本作はこれまで発表してきた静謐なガチャガチャ作品とは一線を画す、作品の授受にフォーカスを当てたものとなった。カプセルの中身に純粋な視線を向けることが難しくなったという指摘もあろう。だが作家と鑑賞者の間で繰り広げられる作品をめぐる “しょうもない”やり取りこそ、仕様の無さを突き詰めた中村の作品に触れる最も正しいアプローチにも思えてならない。